白石という地名の由来
白石という地名には諸説があります。石にまつわる説では、この地方で純白で光沢のある大きな石「神石白石」が産出されたことに由来するというものや、アイヌ語で「石がたくさんあるところ」を意味する「シュラウシ」からきているという説があります。その後、文献によると、11世紀にこの地方を支配していた白石氏という一族の台頭により、この土地が「白石」と呼ばれるようになったという記録も残っています。

土地の統治者の変遷
白石は古くから東北地方の交通・軍事の要衝であり、多くの武将にとって支配したい土地でした。当初は豪族である白石氏が統治しましたが、白石氏は隣地を治める伊達氏から養子を迎えるなど、古くから伊達氏と深い繋がりがありました。そのため、16世紀(戦国時代)には伊達氏の勢力下に入り、この土地の安定を保ちました。伊達氏は、仙台の町を築いた伊達政宗公の一族です。
しかし1591年、豊臣秀吉公が天下統一を果たすと、白石は蒲生氏に与えられ、伊達氏の統治から離れます。その後、蒲生氏から上杉氏の領地へと変わりましたが、関ヶ原の戦いの後、伊達政宗公(伊達氏17代目)が奪還し、再び伊達氏の領地となりました。

白石城の誕生と「一国一城令」の例外
本格的に築城したのは伊達氏ではなく、豊臣秀吉公から白石を与えられた蒲生氏でした。その後、関ヶ原の戦いを経て伊達氏の領地となり、伊達政宗公の家臣・片倉小十郎景綱公が城主となります。片倉小十郎公のもとで大改修が行われ、現在の城下町の基盤が形成されました。以降260年以上にわたり、白石城は片倉氏の居城となりました。
江戸幕府を開いた徳川家康公は、1つの領土に城は1つと定める「一国一城令」を発しましたが、白石城は例外的に存続を許されました。これは、徳川家康公が白石城主・片倉小十郎公を高く評価していたためとも言われています。

波乱の19世紀と廃城
19世紀の幕末まで白石城は地震や火災を乗り越え、修繕や再建を重ねながら存続しました。しかし幕末、政権が徳川幕府から新政府へ移行する中で戊辰戦争が勃発。新政府軍は仙台藩に会津藩討伐を命じましたが、仙台藩はこれを拒否。逆に会津藩を救うため仙台藩・米沢藩が呼びかけ、奥羽14藩が白石城に集結して会議を行い、奥羽越列藩同盟が結成されました。
結局、新政府に嘆願は受け入れられず、白石城は戦いの拠点となりましたが、最終的に仙台藩は新政府軍に降伏し、白石城も明け渡されます。その後、白石城は陸軍省・大蔵省の管轄を経て、1874年に民間へ売却され取り壊されました。現在、城跡は益岡公園となっています。なお、厩口門は延命寺山門へ、東口門(二ノ丸大手二ノ門)は当信寺山門へ移築され現存しています。

市民活動による白石城の木造再建
現代になると市民から復元を望む声が高まりましたが、多くの課題がありました。転機となったのは、NHK大河ドラマ『独眼竜政宗』の放送です。これにより片倉小十郎景綱公も注目され、白石城復元の機運が一気に高まりました。1988年、白石市は白石城三階櫓の復元を政策として掲げました。
当初はコンクリートでの復元案もありましたが、最終的に木造での復元を決断。可能な限り史実に忠実に再建するため、文献調査や発掘が行われました。また、建材には安価な外国産ではなく、ほぼ全て国産材を使用。資金調達のため「瓦一枚運動」などの市民キャンペーンを展開し、最終的に1億円以上の寄付が集まりました。
工事は1992年に始まり、1995年に三階櫓、大手一ノ門・二ノ門、土塀の復元が完成しました。廃城されてから120年、再び白石のシンボルマークとなりました。

日本の匠の技の結晶
木造で史実に忠実に再建された城は全国にわずか5城のみで、白石城はその一つです。発掘調査・地質調査・文献研究を重ね、可能な限り忠実に復元されました。白石近郊の石材、青森や奈良の木材、岐阜の瓦、京都の装飾金物など、日本各地から厳選した素材を用い、石垣・建築・土壁などは伝統工法の職人によって再現されました。特に石垣は「切り込みハギ」「打ち込みハギ」「野面積み」の3種類が再現され、野面積みは全国の再建城では白石城が初めて導入したものです。

台湾との繋がり
二ノ門の梁には台湾檜が使用されました。檜は日本の伝統建築において最高の建材とされ、千年を超える風雪に耐えられる唯一の材料です。特に柱には芯を避けた直径120cm以上の檜が必要となり、それは台湾産檜以外には存在しませんでした。
